水の波紋が波紋であり続けられないのと同様、私の生活も。
どこかで風が吹いて私の心が揺らいだ。
それだけのことなのだから。
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時刻2時23分。
眠りにつけた気でいた私の耳元へ言葉がもぐりこんでくる。
「四月が終わりましたね。」
…
……
……………
僅かな眠気の隙間に入り込むようなか細い声だった。
寝よう
寝よう
寝よう。
…
だから瞼を閉じたままで抗っている。
なぜだか起きてはいけない気がするのだ。
…
私はなんとか自分の意思で光を拒み続けたが、言葉と結びつく”思い出”とやらのせいで不意に映像が流れだす脳内。
四月…
…終わる
くそ、言葉のせいだ
電気もつけていないのに眩しいのは思い出したくない記憶が纏わりついてくるからなのか
嫌な思い出さえも眩しいことが私をひどく萎えさせた。
今私の脳内を埋め尽くしている映像は家族みんなで鍋をつついているシーン。
四人で炬燵を囲み、お父さんの大きな眼鏡が湯気で曇っている。
表情は読み取れなかった。
あかん泣く
なんでかわからんけどこのままでは泣いてしまう。
と思った私は目は閉じたままで縋るよう虚空に問いかけることを選んだ。
「誰だ。」
そうしなければ目には見えない大きなものに支配されてしまうような気がしたのだ。
しかしその言葉は自分の耳にしか届かず、だらりとこだましては嫌な輪郭を保ち空中を漂う。
そうか。と。
こういった念のこもった己の言葉が天井のシミの正体だったのかと、なんとか意識を分散させようとしたが、先程の「誰だ」という口調が私のソレではなかったことに気づき、鳥肌に包まれた。
その声は男性で標準語だった
私を完全に目覚めさせるための手段として、次は畏怖を使ってきた
これは幽霊なのか?
幽霊なのだとしたら、こんなに意地の悪い方法で私を起こそうとするだろうか。
「四月が終わりましたね。」
…なにも怖くない。
「誰だ。」
むしろ私の方が幽霊側の言葉を発している。
以前この場所で殺された者が死んでいることに気付かず新しい住人の私に毎日そう話かける。
「誰だ。」
そうならばお互い被害者ということになるが、わたしはこのアパートに住んで2年以上になる。
タイミングがおかしいではないか
…
いや待てよ
そもそも偶然聞こえたあのひとこと「四月が終わりましたね。」でここまで悩んでいる方がおかしいのではないか?
あれ以来なんの声も聞こえてこないし、自分の言葉も無視されているのだ
外で誰かが電話でもしながら、私の部屋のそばを通ったのかもしれない。
そうだ。なぜこんなにも自然でしっくりとくる答えが一番最初に出てこなかったのだろう。
天井のシミのことなどどうでもいいのだ。
自分の声のことなど気にしなくていいのだ。
そのことをちゃんと理解できた私はようやく目をあけ、なにかを取り払うごとく狂ったように上半身だけを起こした。
外の街灯がぼんやりと染み入る部屋で目を凝らす。
いつもと変わらない部屋。
いつもと変わらないラベンダーのお香のにおい。
寝る前に必ず充電満タンにするスマートフォン。
目の前は日常で溢れていた。
それでもなぜか肩の荷がおりない。
誰もなにも目の前にいないことを確認してもなお、なにかが引っかかりモヤモヤする
そもそもどこで背負ってきたのか
わたしはわざと音が鳴るようにガサツに立ち上がった。
いつもの音
ふらつく足でぺたぺたと歩き、力をこめて網戸を開け放つ。
「そんなことどうでもいいねん!」
私は見えない敵に真正面から立ち向かうことを決めた
次はお前のターンや。
はよ返事をしろ。
チッチッチッチ…
チッチッチッチッチ……
チッチッチッチッチッチッチ……
これまた時計の音がはっきりと聞こえるほどの無視
あぁーーあーーぁーーーあぁーあ!!
腹の底が驚くほど叫んだ。
浜ちゃんは「自分で動き出さなきゃ何も起こらない夜に、何かを叫んで自分を壊せ」と歌っていたのだしこれくらいの叫びは許されるだろう。
でも、こんなに興奮しているのはいつぶりか。
おでこの血管がはち切れそうな感覚だ。
叫んだのなんて、初めてかもしれない。
大人になってからは口喧嘩すらしたことがないうえ、ここまで縁どられた怒りの感情を持つこともなかった。
そこに使う労力が無駄だと思い、喧嘩をしてまで自分の意見を押し通すことのメリットを知らなかった。
私がアルバイトをする古書販売兼喫茶店は歳が三十ほど離れた店長と私しかいないため喧嘩のしようがない。
そういった環境にいて、人生というものから逃げ続けているのか攻め続けているのかはわからないがこの感情をコントロールする術を持っていないことは確かだった。
あまりにも慣れない感情は行き場をなくし、目についた小学生の頃から使っている木のミニテーブルをグーで殴ってみることにした。
もちろんこんなことをするのは初めてだ。
一発で何かがおさまると思った
しかしその予想とは反して、痛みがさらに怒りへと繋がってしまった。
全力でもう一発殴る。
しっかりと痛いのに、痛みと比例するように怒りが増幅する。
収拾がつかなくなりさらに5、6発拳を振り落とした。
その6発目。
骨が痛みから逃げようとしたのか、斜めに擦れるよう接触した拳の皮膚はテーブルとの摩擦で一瞬真っ白になり真っ赤になった。
中指の延長線上にある拳の出っ張りが腫れ、血がでている。
声の主を探さなければ。
私はこの手の痛みと色を見た時そう思った。
明日の仕事のことなど今は考えられなかった。
無断欠勤でクビになるかもしれない。
頼りない髭を蓄えた店長と、文豪の私生活のだらしなさについて語り合うこともできなくなるかもしれない。
それでも今逃げれば明日がやってこない気がした。
この感情を閉じ込めることは死ぬことと同意義
そのままの格好(パジャマとしてお世話になっている高校時代の名前入り体操服)に鼻緒付きのサンダルを引っ掛け、私は家を飛び出した
(続く)