loadingなう

Story

忘却

 
 
「ほら、はやく。ここに名前書いて。」
 
「目の前の川に流すん?」
 
「そう。そしたら、生まれ変われるから。」
 
「…。」
 
「馬鹿にしたらあかんで。
ウチはここで5回生まれ変わってるねん。」
 
「…。」
 
「いい?信じようが信じまいが勝手やけど、今から言うことは聞いて。んで、ウチの言う通りにして。これは絶対。」
 
「ようわからんけど、わかった。」
 
「ほな、始めるで。
まずは目を瞑って、大きく深呼吸を3回して。ゆっくりでいいから。」
 
 
………
 
 
「ちょっと落ち着いた?次が大事。
目は閉じたままで、全てを忘れて。」
 
「ん???どゆこと?」
 
「だーかーら。
全てを忘れるねん。
今まで生きてきた事全て。」
 
「そんなん無理やわ。32年も生きてきてんから。」
 
「うるさい。口は閉じて、はよ忘れて。
今喋ったことも全て。」
 
 
………。
 
 
母の懐かしいパジャマ、祖母が連れて行ってくれた銭湯、盗んでしまった駄菓子、
缶蹴りの夕景、落ちたボタン、図書室のにおい、
出れなくなったジャングルジム、父の塩むすび、ペットの亡骸、彼女の前でついた嘘、
小指の傷痕、徹夜の後の朝日、初めてのビール、年金通知、会社での居場所、今朝見つけた白髪…。
 
 
自分の中にある良いものも悪いものも、いっぺん空にするねん。
 
そしたらな、ごっつい気持ちええから。
 
年齢とか、性別とか、地位とか、自分をカテゴライズする全てを忘れるんよ。
 
生まれた時の、生まれたまんまの自分で、何にも縛られず息をするねん。
 
ゆっくり、ゆっくりでええから、全てを忘れたらな、自分のタイミングで目ぇ開けてな。
 
それから、名前書いた紙をそっと水面に置くんやで?
 
ウチは後ろで待ってるから。
 
 
………。
 
 
「少しはすっきりした?」
 
「うん。俺今名前ないわ。」
 
「ほんまやな。今からつける?」
 
「言葉も漢字も忘れてもうたから、パッと思いつかんな」
 
「ふふっ、せやな。」
 
「初めてここに来たのは?」
 
「中学1年の時。」
 
「名前流したん?」
 
「いや、あの時は「男女」って書いた。」
 
「それは聞いてもいいんかな。」
 
 
ウチな女子の中では運動ができたほうなんよ。
でも仲の良い友達が美術部入ろうって誘ってくれたから運動部には入らんかった。
 
ある時な、体育の授業で持久走があってん。もうひたすら長い距離走って誰が速いかみたいな。
男子も女子もグラウンドに集められて一斉にスタート。
ウチは走るのが好きやったから自分のペースで精一杯走ってん。
そらバスケ部のコとかには勝たれへんかったけど、結構良いタイムがでてさ、ある一人の男子を2周遅れにしてゴールしてもうてん。
ウチ見た目も地味やったからさ、みんな驚いて。ウチもめっちゃ嬉しかった。
でもな、文化部の地味な女に走りで負けた男子がその日から”オンナオトコ”って呼ばれて、
叩かれたり、無理やり胸触られたり、「スカート履け」ってズボン脱がされたりしてん。
ウチは、ウチはこんなんの為に頑張ったんじゃないねん。
ウチの頑張りが誰かを傷つけてると思ったら苦しくて苦しくて。
疲弊しきった彼は教室で静かに息を潜めるだけの時間を過ごしてて。
周りにいた男子は自分にターゲットが変わるのを恐れて、元来友達じゃなかったフリをしてた。
ウチから彼に声をかけて2人で馴れ合うことは出来たんかもしれへん。でもそれは”逃げ”やと思った。
彼がこんなにも痛みを感じてるのやから、原因のウチもこの痛みから逃げてはいけないと思ってん。
あほやろ?まずは彼のことを考えなあかんのに…。ほんまにあほ。んでな、その次の月にな、彼は家から出られへんようになった。
そらそうやんな。ウチのせいで。ウチのせいで彼の大事な時間を奪ってしまった、人生を変えてしまった。
それでもウチは毎日授業を受けてて、情けなくて死にたいと思う日ばかりやった。
 
そんな時な、夜ご飯食べてたら家の電話が鳴ってん。
嫌な予感がした。お母さんから代わってもらったら、彼やった。
ウチは少し安心した。死んだって知らせが来るのをいつも怯えてたから。
彼な、私の声聞いてな、まず何て言ったと思う?「大丈夫?」って言ってん。
めっちゃ優しいあたたかい声やった。
ウチは声がでんくてさ、うん。ってごめんなさい。って伝えたいのに、涙と鼻水がとまらへんくなって。
泣く権利なんてないのに、彼を守ってあげられる言葉をかけたいのに。
泣くことしか出来ひんくて。彼はあんなにしんどい思いしたのにウチの苦しみに気づいててん。
そのことでまた違う苦しみを彼に背負わせてた。どこまで疫病神なんやろなウチは。
無言で泣き続けるウチの耳元でな、彼が「よかった。ごめんな。」って言うのが聞こえて電話がきれたんよ。
ほんまに情けなかった。わかってたけど、その次の日からも彼はやっぱり学校にはこんかった。
それから少し後、彼は引っ越して転校したって朝礼で先生がサラッと言ってん。
何もなかったかのようやった。
ウチは性別なんかいらんと本気で思った、男やからとか女やからとか、それならみんな死ねと思った。
でも、根性がないから、死ぬ勇気はないから、私の中を空っぽにしようと決めてん。
それでこの川に来たのが最初やった。
これも結局自分のことしか考えてないんやけど…。
今の彼が幸せやったら私はほんまに嬉しい。また会いたい。くだらんことで笑って話したい。
だからしぶといほど生きる。んで、ちゃんと謝る。
 
 
「ありがとうな、今日のことぜんぶ」
 
 
昨日の帰り際の顔ひどかったんやから。
仕事はやめてもいいけど、虚しさに連れていかれんといてよ。
唯一の同期やねんから、頼ってよ。
下手でもいいから。ぎこちなくてもいいから。
忘れたくなかったことはゆっくり思い出したらいいから。
 
 
「うん。」
 
「ほんまにわかってんのか?」
 
「うん」
 
「空返事と空っぽは違うから。
んじゃ、空っぽになった記念、なに食べたい?」
 
「ん?急に?食べたいもの…
おかんの切干大根炊いたやつかな。全部茶色の。」
 
「店にないやつ言うかね…。
今すぐ実家かえれ!ほら、はよ!ママが待ってるよ!」
 
「そんな寂しいこと言うなよ!」
 
「知らん、知らん。
ウチは海鮮丼と天ぷらの盛り合わせを食べたいので、食べて帰ります。」
 
「欲の塊やんけ。」
 
「胃が空っぽなので、はい。」
 
「一緒に行こう。俺が奢るわ。いやおごって」
 
「どこ頼ってんねん。」
 
 
 

前の記事:

次の記事: