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Story

蜘蛛

 
 
 
鏡にうつる一重瞼を引っ張ってみるが綺麗な二重瞼にはならない。
 
しかも、今日はやっかいなパターンだ。
 
花粉症のせいで瞼が赤く腫れ、白目は充血。
子供の頃に観たホラー映画の殺人鬼と似た鋭さをしている。
 
 
「顔面休暇」なるものが存在するなら、まさに今日は使いどきといった朝だろう。
 
 
外がどれだけロマンチックな色、匂いをしていようと今の私には関係ない。
 
俗にいう「残念な顔」とは30年以上付き合ってきたのに、ひどく落胆する朝が度々訪れるのが不思議である。
 
 
私は冷水で顔を洗い、目薬をさす。
 
その所作で放射状に伸びた線が数本目に入った。
 
気になり確認すると、
天井の四隅のひとつを陣取った小さな蜘蛛が「何見てくれとんねん」といった空気感で私を見下ろしていた。
 
いつからやろ。。。
 
祖母は「朝は殺したらあかんで」と言い、母は「夜は殺したらダメ」と言っていたような気がする。
 
「あんたがこっちを見んなよ、えらそうに」
 
小さな蛸のようにもみえる主は微動だにしない。
 
「そこにいるなら、家賃払いーや」
 
主はドンと構えている。
 
その態度に、私は祖母、母親、両者の言葉を信じることに決めた。
 
「あんた、昼に倒すからな!待っときや。今から殺虫剤買いにいってくるから。怖いで〜痛いで〜、」
 
 
そうと決まれば即行動だ。
 
私は「顔面休暇」ならぬ「午の刻蜘蛛討伐休暇」を取るため会社に連絡をし、熱がある演技をした。
 
鬱屈な朝を蜘蛛のせいにして仕事を休む32歳はなかなか見つからないと思う。
 
本当は家から一歩も出たくないのだが仕方がない、こいつを殺せるのは昼だけなのだ。
 
 
私は縁の太い眼鏡とニット帽でなるべく顔を隠し外へ出た。
 
 
「ん?こんなんやったっけ…」
 
 
英国紳士ばりの黒いロングコートも、インド料理屋の前に掲げられた国旗も、陽の当たる雑草も、ソールが汚れたスタンスミスも、スーツを着ていれば流れてしまっていた景色ばかりがあった。
 
 
仕事に行かない平日の朝にくるまれると、鼻から肺に入る空気まで愛おしく、私はキョロキョロと世の中を観察しながら歩いた。
 
 
まるでお母さんに手を引かれる幼子のような不自然さで
 
 
 
私をほったらかしにしてくれる朝と共に歩き続け、自宅から3キロ程南にある商店街まで来ていた。
 
あらゆる方向からいい匂いが漂い、そのやかましさが新鮮でなぜか腕まくりをしてさらに進む。
 
 
「はる 7時〜9時 朝のだし巻き定食 550円」
 
重なり合う匂いの中で、でしゃばらずひっそりと何かを待っているかのようなメニューボード
 
50mほど歩き、最も私を惹きつけたのは匂いではなく簡素な字面だった。
 
中には常連らしき先客が二人。
 
一人は足を組み、カマキリのような顔で新聞を睨むおじいちゃん。
 
もう一人はスーツ姿で汗だく、恰幅の良い中年男性だった。
 
「いらっしゃい。どこでもすきなとこすわってぇ。」
割烹着を着たおばあちゃんが私に言う。
 
頭がパーマでくるくるだった。
 
 
受け入れられたことが嬉しかった。
 
 
腰を下ろして数分で、当然のようにだし巻き定食が目の前に置かれた。
 
⚪️豆腐と葱の味噌汁
⚪️きゅうりのぬか漬け
⚪️だし巻き
⚪️白ごはん
 
まさに温かい日本の朝食
 
これこそ生きる意味なのではないかと、私はただただ湯気に見惚れていた。
 
 
「なあにしてんの、ねえちゃん!冷めるで、」
 
「あっ、はい。」
 
息子を叱るような口調がまた優しかった。
 
「食べる」ということを意識したのはしばらくぶりだった。
 
「ねぇちゃん、きれえにたべるなぁ。わたし感心したわあ」
 
祖母は私が綺麗に三角食べをするのを、よく褒めてくれていたっけ。
 
「あ、ははは、これだけが長所なんです」
 
 
「ここら辺のひと?」
 
私が使ったお椀やら小皿を片付ける。
 
「はい、めっちゃそばってわけでもないんですけど」
 
「ね 
カマキリおじいちゃんの読んでいた新聞を叩いた。
 
「あ?」
 
「ほら、このねえちゃん女優さんに似てるやんか、あのー、お上品な」
 
「やちぐさかおるか?」
 
「そう!!八千草薫!あーん、そうそう!八千草薫の若い頃にそっくりよ」
 
「いやいや、そんな…」
 
「べっぴんさんやねぇ…」
 
「ハルばあ、ここちゃんと掃除しとんか?蜘蛛の巣はっとんぞ」
 
カマキリおじいちゃんが新聞で絡め取ろうとする。
 
「あーん、とらんとって!この子ら悪い虫食べてくれるんやから。」
 
「悪い虫も良い虫もあるか、ここ飯くうとこや、」
 
「はいはい、文句言うんやったらヨソ行ってや。」
 
愛のあるやりとりに私は笑ってしまった。
 
「ねえちゃん、かんにんなぁ、このおじちゃんうるさいねん。」
異様に濃くかいた歪な眉毛を動かしながら笑う。
 
「いえいえ、ほんっっまに美味しかったです。ごちそうさまでした。」
 
「嬉しいわぁ。ありがとお!ねぇちゃん名前なんていうのん?」
 
「かえでです。」
 
「これまたええ名前やなぁ。かえでちゃんまたきてな、」
 
「はい、ぜったい。」
 
 
店を出た私は殺虫剤を買うのをやめ、どこにも寄らず帰ることにした。
 
 
 
「アイツの名前はるさんにしよか」
 
 
 
 
 

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